自分を愛するために

旭川まなみ、大学4年生。自分が嫌い・自分に自信がない…そんな現状を変えたくて試行錯誤しています。

「私には言葉しかないと思った」

これは、私が去年の11月に書いた文章です。

私のブログでの原点なので、そのまま載せます。

 

 

 

「私には圧倒的に言葉しかない。」

自分の中に降りてきた言葉に、自分自身でこんなにも納得したのはこれが初めてかもしれない。

今日は10月29日。私は大学2年生である。

今日、明日の週末は、大学の文化祭が行われる。

1年生の時に入っていた吹奏楽サークルと映像制作サークルをこの春で辞めた私は、文化祭だからといって何か活動があるわけでもなく、今日土曜日はアルバイトを入れ、明日は実家に帰省する予定だ。

私には何もないのかもしれない、私は何を頑張っている人なのだろうという悩みはここ半年くらい、ずっと自分の中に付きまとっていた。

演劇が好きで、でも、好きというほど見てもいなくて、どこが好きかと言われればうまく言葉にできない私だ。

そんな私の転機になったのは、約一週間前に参加した合宿である。

これは、演劇フェスティバルが主催しているプログラムで、演劇や文化制作を学ぶ大学生、大学院生が3泊4日の合宿をし、その中で同じ作品を見て、互いに意見を交換しあったり、ゼミで、より専門的な内容を学んだりするプログラムだ。

 

私は、そのプログラムで特に感銘を受けたことがある。それは、とある作品の観劇と、それに付随した意見交換、理解を深めていくプロセスの面白さに気づいたことだ。たとえば、私はその作品に関して、つまりはポーランドの演劇事情に対してあまりよく知らない……いや、ほとんど知らない状態で観劇し、演劇ってなんだか怖いな、という印象を受けた。それは、どんなにつまらないものでも、演劇は逃げることを許してくれないという意味だ。現代という時代は、あらゆるものが便利になっている。情報はキュレーションされ、自分の欲しいものばかりを見ることが可能だし、個人が所有するスマートホンで月額1000円程度支払えば映画をいくらでも見ることができ、さらにその映画は、いつでも再生・一時停止が可能で、私たちが「見たくない」と思った瞬間、タップ一つで見ないことができる。そんな時代の中、わざわざ劇場に足を運び、隣の人とまぁまぁ近い距離で数時間じっと座り、お尻が痛くなっても座りなおすことさえ躊躇するような静かな空間。誰もが自分以外の他者に気を使い、観客自身が責任を負わされているような空間。そんな体験をさせる演劇、だからこそ逃げられない演劇に、私は恐怖を感じた。そういう感想を持ったんです。

他の人の感想は、この作品を今の時代に演劇で上演することの意味であったり、異化効果、フレームの多重構造などを指摘していた。私は、それを聞いて「かっこいいい」と思った。思ったのだ。私もこんな風に表現したいし、このように言葉を操ることができれば、人を劇場に誘うことができる。そう思った。間違いない。そう思った。

選択ゼミの先生から、こんな話があった。「観客には4種類(4段階)ある」と。1、観劇をしても無関心な人。2、観劇をして、形容詞で(おもしろかったーなど)形容できる人。3、観劇をして、それを自分の言葉で説明、どこがどうおもしろかったのか等、を語れる人。4、観劇をして、それを言葉(劇評や普段の言葉)以外の表現を使い、自ら作品を作り出せる人。だいたいこのような分類だったと思う。

私は、この文脈において、3番よりも4番の方が重視、あるいは尊敬されているような気がして少しがっかりしたが、私は3番になりたいと思った。3番は評論家タイプで4番はクリエータータイプ。私は3番になりたい。いや、なれる。絶対私は3番になれる。自分の言葉で説明したい、大好きなことを自分の言葉で説明してわかってもらいたい。いま、強くそう思うのは、やっぱり「私には圧倒的に言葉しかない」と思っているからだと思う。

私は、クリティカルな言葉選びだと言って他人から褒められることがいままでの人生でかなりの回数あった。それは、自分自身を表現する文脈ではなく、たとえばゼミの授業で、論点はここだとグループワークで示す時に言われたり、友達の悩み相談をしている時に、これってこういう考えもできるよね、と言ったら、新しい視点だ、みんなと違うところから違う角度から物事を見られる人だと言われたり。また、印象的だったのは、「愛美の言葉選びは暖かい。愛美は血が通ってない言葉は嫌いだよね」と言われたことである。なるほど、確かにその通りだと思う。血が通ってない言葉とは「かわいそう」とか、他人を突き放す言葉。

私はいままで吹奏楽部でサックスを吹いてきたり、勉強もそれなりにやってきたり、アニメにハマったり、新しいことを始めようと動画制作をしてみたり、まぁ、それなりに色々やってきたつもりだけど、それでも「これだ!」というしっくりさがなくて、これは私がやらなくてもいいんじゃないか、私に向いてないし、もっと上手い人が努力するべき事柄だ、と思ってやめてしまうことがあった。だからこそ、私は大学2年生の文化祭1日目である今日、10時近くに起床して、ツイッターを見て、みんなが「最後のステージ!」とか言ってる中うだうだして、起きて、ワード立ち上げてこの文章を打っている。

 必然だ。私にはそうするしかない。私には言葉しかない。自分の言葉で表現したい。自分の言葉をもっともっと磨いていって、いろんなひとに届く形にしたい。自分の言葉で大好きなひとの大好きな作品とか、活動とか、しないひとに教えたい。私には言葉しかない。でも言葉は自分の内側にあるものしか表現してくれない。私の中にはたっぷりした言葉を紡ぎ出せるほどの中身がないかもしれない。

 他のゼミの先生ががおっしゃっていた。「リサーチとアウトプットの重要性」……わからないことがあったら調べる。そして、それをこうやって文章にしてアウトプットする。私は、ずっとずっっと知らないということを恥じていた。1年生の時に所属していた映像制作サークルの活動でも、みんなが知っていることを自分が知らないことに負い目を感じていた。

でも、それは違うんだ。私はこれから知っていくことができる。大丈夫。私ならできる。私は言葉を使って、言葉で生きていきたい。もちろん言葉からこぼれ落ちてしまう感情とか、言葉に表現することで、同じ形でしか還元不可能になってしまう記憶もあるだろう。

いままで、自分が思っていたことをうまく表現できなくて心の隅っこで泣いていた自分。何が好きなのかわからない、みんなが面白い都行っていることを面白いと思えない。そうやって悩んでいた自分を、私自身が言葉をもっとうまく操れて、ひとに届けることが可能になったとしても、忘れないでいたい。言葉は便利だし、私は大好きだし、使っていきたい。だからこそ、その悪いところも自覚しながら、私は私にしか使えない言葉で、伝えたい。

私には圧倒的に言葉しかないのだから。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。